LEYTE

『士官でありかつ紳士であった山添勇夫大尉への賛辞』
この地において、1943年4月18日午前8時頃、日本陸軍山添勇夫大尉はホセ・ナザレ中尉指揮官下のフィリピノ・ゲリラ隊との遭遇戦を戦い戦死された。彼は厳格な軍規の遂奉者でありながら親切かつ思いやりの深い人柄で、単に彼の部下の信頼と尊敬を受けただけでなく、地域の住民からも本当の士官であり、かつ紳士として尊敬を受けました。彼の英雄的な死は人々の為、男達の兄弟愛が国や統治権を超えて、この碑の建設となりました。

ードラグ市民ー

住民の半日感情が強いフィリピン・レイテ島に、旧日本軍の占領中、公平で友好的な態度を貫き、信望を集めた日本兵士の威徳をしのぶ記念碑が地元の人たちの手で建てられていたことが、京都出身で同島の戦いを体験した人や遺族でつくるビサヤ会の調べで分かった。第二次世界大戦中、日本兵と同島住民との関係はあまり良くなく、しかも経済進出から再び日本への反感が強まっている昨今、「わざわざ地元民が碑を建ててくれるなんて、他に例がないのではないかと関係者を驚かせている。」ドラグ市長は「紳士として、地元民の信頼を集め、キャプテンヤマゾエの亡くなった日は彼の死を悼み、町の教会が終日鐘を鳴らし続けました。」とエピソードに触れながら紹介した。
ー1989年京都新聞より抜粋ー

私の高祖父の弟にあたる山添勇夫陸軍大尉は、昭和12年に招集され、レイテ島のドラグ市で警備隊長を務めている昭和18年に32歳の若さで亡くなりました。2002年に亡くなった高祖母は勇夫おじさんのお骨を迎えに行き、地元の駅に降り立ったとき、大勢の人が「勇夫ちゃん、帰ってきたか」と泣いて集まったと話をしてくれました。お墓に行くたびに、一代目山添藤蔵・妻、二代目山添藤蔵・妻…と続くなか、一人勇夫おじさんのお墓があります。目にするたびに、勇ましく散った人とはいえ、やはり志半ばで亡くなったんだろうという、私達家族の無念はいつも胸に込み上げてきます。誰よりも平和を望み、いつの時代でも「誠実であれ」と身をもって教えてくれた勇夫おじさんの思いを忘れることなく、まっすぐ生きていきたいと思っています。